10:31は朝であること

例えば仕事明けの朝、無理に回した頭が惰性で空転を続ける。そういう状況で書かれたものなのだから、もしも誰かが、僕には計り知れない理由で読んでいるとしたら、これがそういうものなのだということは知っておいてほしい。

最近は下書きばかりが増えている。
思ったこと、考えたことを、過不足なく書かれたものに変えるということは、難しい。

知識の不足、それを扱う器量の不足。自覚はある。
たとえば次のような文章を書いてみる。

考えるという働きの主体は、少なくとも私の場合には、この私そのものではなく、いわゆる無意識とでもいうのか、私をその内部に含んだ何かの、その小止みない流動にある。私はそこに相乗りしているのか、寄生しているのか、ときに言葉や映像を楔のように打ち込んで、意識というものを仮営する。

わからないものは書けないので、先の文のように曖昧で意味不明なものになってしまうか、あるいは憶測や断定の多い、不誠実なものになってしまうようだ。

もしも私が脳や神経、言葉や情報について深く理解していれば、あるがままとは言わないまでも、もう少し歯切れよく書けたかもしれない。あるいは、そちらの方がありえるように思うが、表現する内容の、言語に向かないと早々に悟って、まったく書かないだろう。

ともかくも今日はこれを書いた。書かれたものを見返してもやはり内容はないが、書く徒労が寝つきの助けになったりもするので、なんらかの役には立っていたりするのか。

書く内容が内に向かっても、ろくなことにはならないという気はする。そもそも疲弊しているから内にこもるのか?