これは日記ではない

これは日記ではないのでいいのだ。
前の記事からは十分に中途半端な時間が経っている。
日記として不合格、メモの用もなさず、生存報告にはせわしい。

しかしそれでいいのだ。これは日記ではないから、そういうふうに名付けた。
私がこれをたてたとき、どうせ私の書くもので、ものにならないだろうと思った。
およそメモなり報告なり、使い道があって用をなし、意味を備えた名前のつくものにはきっとならない。その通りになった。

古い記事を読む。言葉そのものに拘泥して内容はない。
これは私にとってはありえることだが、そもそも書く内容はなかったか、あったような気がしていただけで、そのまぼろしを無理に縁取ったような、そんな文章であった。

しかしそれでいいのかもしれない。これには意味がない。
今こうして書いていることにも意味はない。意味はないということから思い出したのだが、先日このような文を見た。

「***には理由や意味などなく、それをありのままに受け入れることができないものが意味を考え、理論を建てる」

***がなんだったのかはもう忘れたし、もとの文意も忘れたが、とかく怖いものはランダムだ。

別のあるときには、こういうことがあった。
なにか対人折衝に関わるような研修に行った帰り、同行した上役が、先に自分のとった行動の意味と理由、ミクロマクロにすらすら物語るのである。僕はほとんど嘘とでたらめだと思ったが、彼は心から信じているらしい。この人は自分自身と僕とに向けて、こういう物語をし、それがまた彼のうち、あるいは僕でなければ周囲の人物を巡って、彼に帰ってくる。磨かれて戻る嘘もあるだろう。そうして彼の物語は強くなる。彼は非常に有能とされており、社会的に成功している。尊敬しもするが、それでも、彼は非常にあいまいで、はすっぱで、どうしてああいうことができるのか、さっぱりわからない。

僕となるとこうはいかない。一歳くらいであきらめたのである。およそ他人のすることに意味や理由はない。
僕はおなかが空けば何かを食べたりするだろうが、何か起こってもそれに対処するだけである。人ともの、行為者と使役者に別なく、平坦でのっぺりとしていて、突然牙をむく。そこに理由はない。おなかが空くのに誰かの思惑が介在したりはしないのと同じだ。
こういう世界観である。それは「心の理論」の欠落のため、都度拾った石を斧に、竹を槍にするサバイバルだった。計画は建てられない。未来はないし、実際たいした未来はなかったし、この先もないように思える。