中途半端なジャンキー1

中島らも」を読んだ。「アマニタ・パンセリナ」である。

明快で面白い文章ではあるものの、そのためにか怪しい情報や潤筆も多くみえ、「頭のいい人は頭の悪い人にも理解できるように説明できる」というようなことをそのまま実行すると、こういう書き物になるのかなという気もした。もちろん数十年前の大衆作家のエッセイに、情報の正確性とか倫理を求めることのがおかしいのだけど。

作中、中島らもは自身をして「中途半端なジャンキー」と書いている。私も若干それにあたるところがあって、実際そういうことがもとになって病院に運ばれたこともある。作中で語られる彼の主な依存は「酒」「ブロン」「睡眠薬」に向いているが、私も程度の差こそあれ、それらに依存の傾向がある。こうして何かを書いている今も、いわゆる睡眠導入剤が効いているのだ。
生きるのは辛いし、過敏な感覚は薬で鈍麻させたほうがうまくいくこともある(と思う)。破滅願望があるわけではない。その反対で、生きやすさを求めて薬をとる。僕が中途半端なジャンキーであるというのは、適応のために必要なものを探しているという部分が大きい。

中島らもが中途半端なジャンキーであった、中途半端に留まっていられた理由はよくわからないが、ともかくも、僕はある種の共感というか、敬慕から敬意を若干引いたものくらいの感情を抱いていたのだ。しかし彼はこういうことをうそぶく。

依存はひとつの生き方である。本質的に「会社につとめている」ことと何ら変わりはない。

 これは過剰な自己演出だと思う。もしかして彼自身は本当に信じていたのかもしれないが。この人相手に何を真面目にと思われるかもしれないが、薬は別物である。
薬物依存と会社勤めでは、さすがに比べられるものではない。

「 破天荒な天才」
この人の場合はもともとの仕事の関係もあって、そういうイメージ作りについては、セルフブランディングとでもいうのか、かなり自覚的だったのではないか(「甚兵衛の一生」を見よ)。

その後半生については知らないが、中島らもは少なくとも「破天荒な」ではなく、「中途半端なジャンキー」だった。それである程度長く生きた。もちろん並はずれた人だったのはいうまでもないが。そしてまわりのサポートがあった。おそらくはサポートという言葉では語りつくせないものがあったようだ。なにかでわかぎゑふが話すのを見たように思う。こういう、周りを巻き込みながら天才だからと、ということで無茶を、仕事を続けた人として、先日の騒動の荒木を思い出したのだったが、彼もまた、自己演出の人である。

※なお念のため、私は現在も精神科へ通院している身であり、先に書いた薬のことで違法なことはしていない。